公式/非公式なる「生」研究会

院生代表者

  • 篠原 眞紀子

教員責任者

  • 立岩 真也

企画目的・実施計画

 本研究会は,フィールドワークや資料調査による研究の中で,当事者の方々が「医療」では語られないこと,語れない「痛み」や「生きづらさ」について,「それは一体なになのだろうか?」「何故そうなるのだろうか?」と問いながら,そのことについて当事者の自治会活動,自主的活動を掘り下げて考えてみることとした。得られた知が個人の研究内だけに留まらず,相互学習することで,さらに新たな研究の視野を探究していこうと志すものであった。
本研究会メンバーは,病(やまい)をもたれたり「障害」のある方々と関わってきたが,「医療」の範疇にない「痛み」や「生きづらさ」の存在を実感してきた。そしてその「痛み」や「生きづらさ」は,公けに出さなくては更に二次的な「生きづらさ」を助長するものであったり,一方で非公式にしておきたいが「痛み」のシェアをして活力を得たい部分が混在していることがわかってきた。研究が個人内で留まっているだけでは社会的還元は望めない。お互いのフィールドワークや資料調査で得た事項について議論を深め,研究成果を明示することは,当事者の方々の生きやすさにもつながっていく可能性があり,また,支援の介入についても覚知をうながす可能性を持ちえると確信し,共同研究していくことに意義があるものと考え,研究会の実施計画を行った。申請者たちは上記のフィールドワークや資料調査についての結果を内部でまず発表し議論する計画を立てていった。そして,社会還元できる部分は報告発表していくことと計画した。

活動内容

第1回 7月26日  各自の研究課題から「公式/非公式の「生」」に関する事項の検討と,共通認
識事項の確認,調査計画に関する討議。
第2回 10月10日 各自の研究事項から,調査の難題について,お互いに意見を出し合い検討。
第3回 11月28日 調査中間報告
第4回  2月 6日 調査成果報告と今後の課題検討

研究会の討議を通して行った各自の活動経過
鈴木 
重層的な抑圧構造のなかで生きるハンセン病療養所入所者の公式な制度とそれに対する非公式な行
動がどのようなものだったかを具体的に明らかにする。沖縄のハンセン病患者に対する重層的な抑圧構造は,戦後の米軍統治下だけではなく,1907年から始まった日本のハンセン病政策からすでにあった。
今回の調査・研究は,次の2点について行った。1点めは,米軍統治下にハンセン病患者として渡日する時の「非公式」なあり方であり,2点めは,沖縄本島に設立された療養所,国頭愛楽園開園時の,国が求める入所者のあり方とそれに対抗する入所者のあり方についてである。2点目については2016年3月6日沖鵜縄愛楽園交流会館で開催された、リプリント『選ばれた島』発刊記念シンポジウム 青木恵哉~愛楽園の礎となった療養者~において、論題『創立期の愛楽園で人々が求めたこと』を報告した。
 また,このシンポジウムの報告は来年度,論集として発刊する予定になっている。

岸田
活動レポート 2015年10月
京都府立盲学校資料室を訪問。住所 京都市北区
目的 自身(岸田)の研究目的は,研究対象である視覚障害者であった故楠敏雄が大学進学をめざし1966年京都府立盲学校に進学したが,その状況を解明することにある。
京都府盲学校は,全国の盲学校から筑波盲学校理療課教員養成施設を受験する生徒や大学受験する生徒を普通科専攻科に受け入れていたので,当時の視覚障害者の大学進学の状況を解明するために妥当な機関として来訪した。そして,当学の岸教諭から説明を受けることを目的とした。
聞き取りから得た結果
1.1966年当時,視覚障害者の大学進学志望者は極小であったため,全国の盲学校で大学進学に関する調査は実施されていなかった。京都府立盲学校のみを調べると,1967年大学進学の生徒は,楠と女子生徒だけであった。
2.当時,東京教育大学以外の国立大学では点字受験は実施されず,他に視覚障害者の大学受験の道は私立大学受験以外なかった。京都府立盲学校からの大学進学者は少数であるが存在し,楠が龍谷大学に入学した翌年,当学校から始めて大阪音楽大学に合格した生徒がいた。
3.岸教諭の話から戦前に楠のように過激な視覚障害の社会運動家が存在したとのことであったが,それを示す資料は皆無であった。
4.京都府立盲学校は日本初の盲学校であるため,その発端を理解する事を意図し,盲教育の先駆的活動資料を閲覧していった。
今回の訪問調査によって,楠が大学受験を目指した1966年当時は視覚障害者にとって,大学進学は極小で,本人にとって相当な覚悟が必要と推測された。

定藤邦子(研究協力者・助言者)

1991年,筋ジストロフィーの重度の障害児玉置君は成績が合格点にもかかわらず身体障害を理由に尼崎市立尼崎高校への入学を拒否された。彼は「その不合格処分は障害児の能力に応じて等しく教育を受ける権利の侵害である」として提訴した。1992年,裁判の判決は「身体障害のみを理由に入学の道が閉ざされることは許されない」として入学不許可処分の取り消しを命じた。それまで養護学校義務化の日本では統合教育を認めた判決はなかった。統合教育が尊重されたこの裁判判決は画期的であり障害者の学校選択権を広げた。この24年前の裁判は今日の障害児の教育機会の平等にとって重要な裁判であった
筆者は第1にこの裁判を検証し,第2に今日の障害児の教育権の問題点を探り,障害児の教育の機会平等について,研究会で討議し,本年度はこの裁判の経緯を明らかにするために主に2冊の裁判記録資料集と当時の新聞記事や支援団体の活動資料を中心に研究した。裁判記録資料集は自身(定藤)が所有していたものである。当時のこの裁判に関する新聞記事と支援団体の活動資料については,2011年8月に自身(定藤)と当時先端研の青木千帆子専門研究員と立命館大学非常勤講師野崎泰伸氏と共に障害者作業所「遊び雲」を訪問して,兵庫の障害者運動資料の中から先端研の資料として提供したものである。
この裁判が今日の障害児の教育の選択権にどのように影響しているかまた,障害児教育の現状を考えるために,南大阪「障害」のある子供と学校生活を考える学習会(2015年8月29日,2016年1月9日)に参加した。その中で障害児者と家族の教育の現状や悩みを聞くことができた。そして,最近では知的障害者や発達障害者の児童の親の悩みが深刻であることを感じた。高校進学において子供にとって普通校がいいのか支援学校がいいのか悩む親が多い。また普通高への進学を希望しても定員割れの定時制高校が家から遠いとか,やはり昼間の学校へ行きたいと希望する障害児も多い。重度脳性マヒの障害児を普通高と大学に通わせた母親は,「支援学校があるので,親は支援学校か普通高かを悩むのであって,最初から支援学校がない方がいいのでは」と語っていた。また,都道府県や地域によって障害児の普通高選択権の自由もまちまちであるという問題もある。

篠原
1970年代から80年代に中津川市の市民運動に支えられて東小学校の養護学級から派生して「生活の家」が構築された。当時から現在に至り障害ある人たちが「仲間の会」という会議を行っている。毎週水曜日にはグループホームで暮らす「障害者」と重度心身障害施設(以下,重心施設と略)の「障害者」で構成される会議が行われている。他に自活センター及びグループホーム,重心施設の合同会議と役員会があるが,自身(篠原)は前者の会議の参与観察を行った。
仲間の会は自由参加だが,さまざまな種別の「障害者」が参加していた。一議題につき,みなの了解や意見が出されることを原則としていたが,参加中,給料の問題が挙げられていた。グループホームの人たちは何らかの収入を得ているが,重心の人たちは給料を受け取る機会がないため,重心の人たちにグループホームの人たちの収入を分配できないかというものであった。
現在の生活の家の主要な敷地は開拓地で,戦後入植した開拓者から無期限無料貸借された土地であるが,毎年9月にその開拓者を迎え生活の家に関わる「障害者」たちが敬老会を行っている。公式的には一つの行事として述べられてしまうが,民話劇(開拓劇)や余興の演目,接待の仕方,手作りの土産物,食事の献立,その手配に至る細々した事項について,接待する開拓者の方々がどうしたら喜ばれるかなど,行事を行うために丹念な話し合いが行われていた。
意見のやり取りについて,重度の知的障害をもつ人は内容理解するまで繰り返し確認し意見を出していた。仮名文字の理解可能な人は書記に下書きを求め,自分の帳面に書き留め,そこから自分の意見を伝える方法をとっていた。文字板でのやり取りを行う人は居合わせた隣席の参加者が文字版の意見を代読するなど,居合わせたメンバーで補い合うものであった。会議で特徴的なのは,決議事項を一旦,自分のグループホームやストリートの不参加の人たちに説明し,意見を仰ぎ,再度当会議で討議する道程を経ていることであった。合意を取り付けるまでに非常に時間をかけていることがわかった。

成果及び今後の課題

 各自の研究課題は倫理的配慮を要する内容で1年目の当研究会はすべて非公開形式に留めた。各々の研究課題からは,調査対象の個人や集団を通した社会運動の中で,公式には単純に済まされてしまう事項が,実は表には出されなかった,生き暮らしていくことの複雑な事情を含み,さまざまなやり方を営んでいることが,話し合うことにより理解されてきた。また,公式的な部分と非公式な部分を巧みに使い分けて生きていく術を展開していることも,各々の事例から明らかになってきた。
 次年度は研究会内だけの問題解決にとどまらず公にできる部分については公開にし,研究会で打ち出したテーマに関わる実践者をゲストスピーカーやアドヴァイザーとして迎え,社会に開かれた活動にすることを今後の課題とした。

構成メンバー

鈴木 陽子  公共領域院生
岸田 典子  公共領域院生 
篠原 眞紀子 公共領域院生

先端研 刊行物 学術誌 プロモーションビデオ