発表要旨
原塁(京都大学大学院)「武満徹の後期創作におけるイメージとかたち」
本発表は、武満徹(1930-1996)が作曲したピアノ独奏曲《雨の樹 素描》(1982)について、イメージと「かたち」という観点から考察する。まず、1980年以降の武満のナラティブに、夢の情景や庭の図面といった特定の具体的なイメージを創作の出発点に据える態度が広く認められることを確認する。次に《雨の樹 素描》の構造を分析し、シンメトリーに基づく秩序立った構成を指摘する。その上で、本発表では作品の出発点にある「雨の樹」というイメージについて検討する。「雨の樹」というテーマは、大江健三郎の小説に由来するが、大江と武満の交わりを同時代の日本の社会・文化的背景を踏まえることで、この語が喚起するイメージの内実が明らかにされる。以上の考察をもとに楽曲分析によって明らかになった《雨の樹 素描》の「かたち」と出発点にある「雨の樹」のイメージとの関係性を詳らかにする。
荒木真歩(神戸大学大学院)「民俗芸能における正統性の獲得――記録映像を用いた習得に着目して」
本発表は日本の民俗芸能の伝承で過去の記録映像を使用する際に、演者が記録映像のいかなる要素に注目し、芸態の正統性を獲得し習得するのか、その実践を捉えることを目的としている。日本各地の集落に伝わる民俗芸能は、都市化や少子高齢化により集落の人口が少なくなり継承の問題を抱えている。本事例で扱う篠原踊りはその一つであり、問題解決のために集落外の人々も演者として参与し、過去に撮影された記録映像を見ながら歌や踊りを習得するよう新たな習得方法へと舵を切った。
記録映像を使い始めると演者たちは自身と関係の強い演者に焦点を当ててそれを真似るよう習得する様子が見られた。しかし次第に新たに参与した演者を中心に、映っている演者個人に焦点を当てるのではなく、自身が上手と判断した演者たちの芸態を部分的に参照しそれを習得するようになった。
これは新たな習得状況の中で再文脈化された映像の見方であり、これまでの演者との社会関係を繋ぎ留めつつ、新たな芸態の正統性を獲得し伝承する実践を詳細に考察する。
西澤忠志(立命館大学大学院)「明治30、40年代の音楽鑑賞論の展開と問題意識――小松耕輔の音楽評論から」
本発表は音楽家、小松耕輔の音楽鑑賞に関する評論を通して、音楽そのものの聴取を重視した音楽鑑賞がどのような問題意識から現れたのかを提示する。明治30年代以降、日本の、特に東京で西洋音楽が演奏される機会が増え、その中で西洋音楽は聴く対象として見なされ始める。それとともに、学生を中心とする聴取層が形成された。こうした西洋音楽をめぐる環境の変化の中で、西洋音楽をどう聴くべきかを論じた評論が現れた。この西洋音楽の鑑賞に関する評論に共通する特徴は、音楽に付随するテキストではなく、音楽そのものを聴き取ることで、その曲の「精神」を感受することを重視した点にある。こうした聴取態度がどのような問題意識から現れたのかという点を、同時期に音楽雑誌や新聞を通じて音楽の聴き方に関する評論を発表した音楽家、小松耕輔の評論から明らかにする。これにより、「精神性」を重視する音楽鑑賞が持った思想的背景の一端を提示することを目的とする。
中辻柚珠(京都大学大学院)「プラハ・モダニズム研究史」
ヨーロッパ・モダニズムの歴史の中に、プラハのモダニズムはどう位置づくのか。プラハ・モダニズム史は、長い共産主義・社会主義時代の間に研究が滞り、また言語的問題から、日本は勿論、英語圏でも十分に認知されてこなかった。とりわけ、ヨーロッパ・モダニズム史全体におけるプラハの位置づけとなると、殆どのことが知られていない。しかし、当然ながら、知られていないことと価値のないことは全く別次元の問題である。その歴史は、プラハのみで完結しえない、ヨーロッパ全域での国際的なモダニズム運動のネットワークの中に位置づくであろう。本報告では、1895年のチェコ・モダニズム宣言を始点に、主として造形芸術の分野に焦点を当てながら、プラハ・モダニズムの歴史およびその研究史を概観したい。また、その研究史を、報告者の専門であるナショナリズム史の分野に照らし合わせたとき、いかなる論点が浮かび上がるかについても論じたい。
奥坊由起子(立命館大学大学院)「1920年代イングランドの音楽におけるナショナル・アイデンティティとモダニティ」
20世紀初頭のイングランドは長らく続いていた外国音楽の強い影響に反発して、自国の音楽諸活動が興隆する音楽復興期を迎えた。この時期に作曲家たちは、それぞれの音楽作品のなかでナショナル・アイデンティティを表現しようと模索したのである。イングランド音楽およびその音楽生活は、そうしたアイデンティティ表出への嗜好とモダニティへの抵抗を示すと考えられてきたが、特に1920年代においてモダニティへの嗜好をも示すと説明されてきた。本発表は、この一見すると矛盾している点に着目したい。1920年代のイングランド音楽において、ナショナル・アイデンティティとモダニティはどのように理解され、それらがイングランド音楽をどのように特徴づけ、そして両者がいかなる関係性にあったのか。本発表はこれらの問題に取り組み、音楽復興期に生じた音楽ムーヴメントも手がかりとしながら、1920年代におけるイングランド音楽を改めて解釈することを目的とする。
加納遥香(一橋大学大学院)「社会主義ベトナムにおける革命と音楽――ベトナム・オペラ《コー・サオ》に着目して」
北ベトナムを領土とし、社会主義体制を採用するベトナム民主共和国(1954~)においてつくられた音楽劇《コー・サオ》(1965)は、ベトナムの作曲家によりヨーロッパ発祥のオペラ形式に基づいて創作された初めての「ベトナム・オペラ」作品である。
一党独裁体制下の同国において共産主義者らは文化領域における「革命」を提唱し、その論理の下でオペラが受容され、《コー・サオ》が誕生した。脚本・音楽を手掛けた音楽家協会の書記長で作曲家のドー・ニュアンはベトナムの民間音楽や歌曲をとりいれながら、1940年代のベトナム西北地方を舞台とした独立革命の物語を描き出した。同作品はベトナム戦争が本格化する1965年に建国20周年を記念して国立のオペラ団により初演された。
本発表では国内外の情勢、オペラをめぐる音楽文化の形成、《コー・サオ》の表象・上演状況を「革命」を軸に読み解き、社会主義ベトナムにおいて革命と音楽が織りなす様相を明らかにする。
松本理沙(京都大学大学院)「アクティヴィズム・アートにおける表象と行動――1980年代アメリカを例に」
本発表は、1980年代にアメリカで隆盛したアクティヴィズム・アートにおけるコミュニティ/公衆の表象について考察するものである。スザンヌ・レイシーやニナ・フェリシンが指摘する通り、アクティヴィズム・アートの特徴はエイズやレイシズムといった社会問題を扱う点にある。彼らは社会への直接的な行動を志向するが、その象徴としてアートワールド外に存在するマイノリティのコミュニティや公衆を作品に取り込んでいく。結果としてコミュニティ/公衆はアクティヴィズム・アートにおいて様々な形で表象されることとなる。本発表はこのコミュニティ/公衆表象の例としてニューヨークで活動した芸術集団グループ・マテリアルを取り上げる。まず、彼らの活動を三つの時期に区分し、それぞれの時期におけるコミュニティ/公衆の表象を示す。次に三つの区分における表象の変遷を詳らかにしていく。それによって、グループ・マテリアルにおけるコミュニティ/公衆とアクティヴィズム・アート自体が有する構造との関係が浮かび上がるだろう。
田邉健太郎(立命館大学)「映画音楽,物語空間,虚構の語り手」
本講演では,「物語(narrative)」概念を手がかりとして,映画に関する基礎的問題を考えたい。併せて,分析美学と音楽学(映画音楽研究)の接点を紹介し,今後どのような方向で共同研究が可能となるか,検討する。具体的には,以下の二つの話題を取りあげる。
(1)映画的語り手:
文学と同様,映画においても「語り手(映画的語り手(cinematic narrator))」の存在が議論されている。制作者とは別に,映像や音を通じて物語を伝える「語り手」がいると仮定するべきなのか,いるとしたらそれはどのような位置にあり,いかなる役割を果たしているのだろうか。分析美学における論争を概観する。
(2)映画音楽における「物語世界内/物語世界外」の区別:
映画の中の音源から発せられ,したがって登場人物も聞いていると考えられる「物語世界内(diegetic)」の音楽,観客だけが聞くことのできる「物語世界外(nondiegetic)」の音楽の区別は,映画音楽研究においてよく知られている。この区別に関連して,二人の論者を取りあげる。まず,物語世界外的音楽を,「映画的語り手」に帰属される事例と,「内在する制作者(implied filmmaker)」に帰属される事例に分類したジェロルド・レヴィンソン(Jerrold Levinson)の議論を紹介する。次に,あらゆる映画音楽は,コスチュームなどと同様に映画の物語の一部であり,したがって上記のような区別は成立しないとするベン・ウィンタース(Ben Winters)の議論を紹介する。
「物語」概念を軸に話を進めるが,そうした枠組みからこぼれ落ちてしまう側面や,ビデオゲームなど他のジャンルへの応用も,全体討議の際に議論したいと考えている。